M-BUG take free

音楽フリーペーパー「M-Bug」オフィシャルサイト


BLOG

2015/12/22

共感至上主義を見つめれば

約2ヶ月前、スタッフブログの初校を提出したら、「もっとポップに書きなさい」という要求。それから、よくわからない夢を見るようになった。「ポップとか、みんな欲しがるものなんですか? ポップって、何ですか?」と叫ぶ夢。今回の駄目出しで「ポップに、ポップに」と強迫観念ばかりが頭の中を駆け回り、でもみんなの求めるポップ・ブログを書くのは無理、いや、書かねばならぬ、と、私自身の気概で憂いた時期も、あるにはあった。

ポップが苦手と言うと、アウトローぶっているようで我ながら寒気がしますけれど、事実、ポップ寄りのサブカルチャーである漫画でさえ読めません。漫画に救われたことのある人には顔向けできませんが、デフォルメされた人物画・凝縮された台詞の応酬がまるでこちらに媚を売るように思えて……漫画をどう受け止めたらいいのかわからないのです。つまり、それをめくるとやってくるのは困惑・不安。以前、ラジオを聴いていたら、音楽プロデューサーの亀田誠治氏が、「自分はひとりじゃない、自分も周りも似た者同士なんだと気付かせるのが、ポップの役割なんです」と話していたのをふと思い出し、「ポップと不安は対極にあると思う」というライターの先生の見解ともそれは一致するなあとぼんやり考えて、閃く。漫画が私にとっての不安なら、その対極にあり、私に連帯感という安心を齎すものが私にとってのポップでしょう。

そして頭に浮かんだのは、映画「先生を流産させる会」です。男性と関係を持ち懐妊するという“女の業”への生理的嫌悪感、そして自身もいずれその“女という動物”になる怒りや悲しみ、これらが一部の思春期の女の子の中で、次第に本当の殺意に変貌する様に、私は非常に共感します。この映画を観返すと安心が訪れる。「昨日、お母さんにお赤飯を炊いてもらった」と教室ではしゃぐ友人たちに追従笑いを浮かべていた当時の、あの居心地の悪さ。純潔は寓話でしかなく、毎日が発情期という不潔に染まる未来への絶望感。あのときに、「女って、気持ち悪い」と吐露できていたら、どんなに楽になれただろう。そう回顧しながらも、ああいう感情を抱いた少女は私だけでなかったと、私自身を認め、許すことができる「先生を流産させる会」は、心の支えと言っても過言ではない。

でも、そう言ったそばから、またちょっと怪訝になる。自分はひとりじゃないと思うことは、生きていく上でそもそも重要なのだろうか。ツイッターのフォロワー数やフェイスブックの「いいね」の数、ラインの友だち数、これらが多ければ多いほど勇気付けられる人、誉れ高き人種のように振る舞う人、またはそれに憧れる人……彼らは、彼女らは、私は、何か間違ったことをみんなで信じ込み合っているような気がしてならない。ひとりじゃないなんて、嘘です。人は絶対に分かち合えず、誰だってひとりです。私にとっての「先生を流産させる会」も、結局は一時的なまやかしの慰めでしかなく、じゃあ、ポップの存在意義は何でしょう、と言えば、人々に温かなシンパシーを与えることであり、人々に「ひとりぼっちは寂しい」を信仰させることであり、これらは今のこの世界を成立させるために必要な“公式の答え”なのだろうけれど、でも“公式の答え”を受容しない手もあることを、私たちは忘れてはいけないように思う。そして友情とは本来、友だちなんていなくても生きていける人々の間にしか成立しないものではないかとも思う。

ポップとは、共感至上主義。ポップを、だいたいのみんなは欲しがる。そう解釈して、いろいろと反抗したわけだけど、私はこの世界を変えることはできない。どこかでポップに寄りかかっていることに気付きもしないのだろう。
 
世界は冬に雪を降らす。毎年毎年忘れもせず。あの結晶ひとつひとつがすべて違うなんて、泣きたくなる。
 
溝部尚子

IMG_0816


記事一覧

PAGE TOP